モラトリアム社会人

日常の拡大が非日常を生み出すのだろうか。

コンテクスト

こんにちは。
私は忙しくて基本的に暇があまりないのだが、朝は頭が働いていないから動けないという言い訳をして朝食を取るまでは何をしてもいいというルールを設けている。
今朝は暇な時にぼんやり友人のブログを読み漁っていた。その時に気付いた事について少し書いてみようと思う。

コンテクスト

友人のブログは何も今日じゃなくても、今までにも読んだ事があった。なんなら今日は1年くらい前に読んだ記事を読み返していた。そこで気付いたことがある。

……なんだか少し分かるようになってきている……?

この感覚である。
昔から私の友人は私にとって何を言ってるか半分くらいしか分からない人間であったが、それでいてもう5~6年の付き合いになる。
そう、その読み返していた記事、彼の哲学的な態度について書かれていたもの、は過去読んだ時には半分くらいしか分からないと感じていた記憶がある。しかし今日読むと9割くらい分かるのだ。
こういう時、どう感じるのだろうか。

  • 私が見識を深めた故に理解出来るようになった。

しかし私の直感ではこれは一概にそうとは言えないのである。というのが今回のお話だ。

まず、私と友人について過去、高校生時代ではお互いの思想をぶつけ合う、いわば討論仲間であった。大学生に入ってからは私は自身の思想について研鑽をやめた。そして彼はより一層の研鑽を積むようになったと感じる(単純に自分がやめたからそう感じたという可能性もある)。
しかし時々会っては回想し、近況報告などをするくらいの仲ではあった。そうして今までそのように関係を続けてきた訳だが、さて、私は本当に見識を深めたのだろうか。

記事が理解出来るようになってきたのは、私が見識を深めたのでは無く、恐らく彼と話していく内に共通言語のようなものが増えたからであると私は考える。
仲の良い人間を想像して欲しい。恐らくこの身内でなければこの言葉遣いはしないというものはないだろうか。それがあなたとその人の共通言語である。これは一朝一夕で生まれるものではない。長く話してきたからこそのものである。
つまり人は長く話していく内に分からないもののニュアンスがだんだん掴めていくという事である。

ソシュールの考え方を引用してみたいと思う。

ソシュールとは、19世紀後半~20世紀前半のスイスの言語学者で、生前の著作はないが没後にジュネーブ大学での講義ノートをもとに編集された『一般言語学講義』が岩波書店から出版されており、彼の考え方は日本語で読む事が出来る(非常に難解ではあるようだが)。

彼は、文化や地域の差から生じる言語の指し示す意味範囲の違いに着目した。
彼が出した例にムートンとシープの話がある。
ムートンとはフランス語でシープは英語である。ムートンは生き物としての羊と食用肉になった羊の両方に用いるが、シープは生き物としての羊にしか使わず、食用肉になった羊はマトンという。

つまり同じ意味範囲でもフランス語では1語、英語では2語で分節されている。
何が言いたいのか。この場合において英語ではフランス語より細かく物事が捉えられているのだ。

これは例に限ったことでは無いし、恐らく同じ日本語の中でも生じうる話であると私は考える。

植物図鑑を丸暗記しているようなAくんと、植物について詳しくない私では、見えている世界が違う。私には緑一色の景色にしか見えなくても、Aくんにはカラフルな景色が広がっているはずだ。

これを応用しよう。人は話していくうちに相手の使う言葉と自分の使う言葉の意味範囲の違いに気付く。相手と自分のこの違いに気付くには同じ話を何度もせねばならない。
そうしていくうちに相手の使う言葉に自分の使う言葉の意味範囲を合わせて会話することができるようになるのだと私は思うし、実際、私と友人も同じ事をしているのだと感じる(私の友人が合わせてくれている事が多いという事を自覚した気がする)。

使う言葉の意味範囲の違いを捉えていくことで、飛躍的に理解が広がる事もあるのではないだろうか。

締めとして

この考え方は仲の良い人をより良く理解する時に大切な考え方なのではないかと最近個人的には考えている。もちろんソシュールから分かる事としてこれよりももっと重要な事もたくさんあるが、論旨とズレるのでその事には触れなかった(今ならネットで検索しても出てくるであろう)。
私として、ひとまずコンテクスト(共通文脈)の重要性を少し理解してもらえれば幸いかと思う。