モラトリアム社会人

日常の拡大が非日常を生み出すのだろうか。

時間と色(という名の近況報告)

こんにちは。
これは報告だが、私事で社会人を一旦やめたので今はただの無職ということになっている。
この期間が続くことに対しては危機感を少し抱いているため、フリーターには格上げしておきたいと思っている今日この頃。
具体的にどのような危機感なのかという部分が今回の題材である。
早速だが、本題に触れてみよう。

絶対時間と感じる時間

おそらく当然のことだが、時間というものは過ぎていく。またおそらく時間には過去と現在と未来がある。
しかし視点は現在に集約される。
他人の言葉を借りれば、「過去」も「未来」も「現在」というフィルターがかかった状態でしか見ることが出来ない。
個人的には「時間を感じる」とは、過去を振り返った時にその過去にどれだけの虹色と黒色が散りばめられているかに尽きると思う。
これも他人の言葉を借りるが、強烈な色以外は遠近法によって古典になっていき時効となる。つまり忘れ去られる。
過去も現在も、そして未来もきっとその時その時は本気で生きて同じ絶対時間を歩んでいるはずだ。
しかし「過去」も「未来」も「現在」というフィルターにかけられると途端に凝縮される。それで残るのが虹色もしくは黒色だと私は思う。

具体的には

私は高校時代については、語れる部分が多くある。虹色と呼べるそれもあるし、黒色と呼べるそれもある。しかし大学時代に関して語れるものは高校時代に対して少々少ないように感じる。
一般的に高校は3年、大学は4年ある。絶対時間は大学の方が長いのだが、私は高校生活は長かったが、大学生活はあっという間だったと感じている。
時効になって忘れ去られる記憶が多いと、その分絶対時間から忘れ去られた記憶の分の時間が引かれる。そうすると高校時代の方がきっと長いという考え方で一旦自分の中で落ち着いている。

その考えで落ち着くと危機感の正体が見えてくるような気がするが、まずはひとつ補足をする。

人間は何を求めるか

人間は生きる上で何を欲するか。おそらく難しい問いなので具体例から挙げていくのが良いだろう。

  • 何らかの夢を叶えたい(自己実現)。
  • パートナーが欲しい。
  • お金が欲しい。
  • とにかく休暇が欲しい。

他にも色々あるのだろう。自分の考察では色で分けられる。現在から見た短期的な過去や未来はおそらく感じる色としては濃い。それは古典になる前の鮮明な記憶だからだ。
具体例を上から深堀していくと

  • 虹色を求める。
  • 虹色を求める。
  • 虹色を求める、もしくは黒色から脱却したい。
  • 黒色から脱却したい。虹色を求めるための準備がしたい。

のように分類できるように思う。つまり人間は常に虹色を求め、かつ黒色からは逃れたいという解釈が出来ると私は思う。

今までの話を元に危機感の正体を暴きたい。

危機感の正体

ニートが続くことに対する危機感はおそらくだが、

「虹色を求めていないが、黒色にも染まりきらない」

この灰色の快適さにあると思う。

人間は虹色を求めると色々な色を人生という名のキャンバスに塗っていくことになる。絵の具で色々な色を混ぜたらどうなるか。黒色が出来上がる。虹色と黒色は表裏一体である。
灰色は黒と白を混ぜれば作れる。灰色を心地良いと感じる人間は、おそらく要素として黒色を既に持っている。逃げというのは黒色を薄くすることであるから基本的には白色で行うことになるのではないか(または水などの透明色。どちらにせよ白のキャンバスをベースとする以上灰色っぽくなると思う)。よって灰色は逃げの結果ではないかと私は思う。
そして黒色を恐れると虹色を逃す。生きる上で人間が求めるのは虹色である。

自分の人生において虹色を求められない人間はきっといつか振り返った時に何も残っていないだろう。灰色なのだから。灰色は時効によって消えていく。そして絶対時間との比較を通してきっと後悔する。

私はそう感じたからニート期間が長くなることに危機感を覚えている。
とここで初めて言語化できた。

締めとして

まず、比喩が多いことに対して申し訳なく思う。
感覚が私とマッチしない人間はこの話に共感できないからだ。
この話は、危機感を覚えた時に何故かと問うた時に言語化したいという思いで書き始めた。
なので基本的に後付けであり、実際にどうなのかは自分にもまだ分かっていない。しっくりくる部分もあれば、そうでない部分もある。だからどこか間違えている。

いつかその間違いに気付ける日が来ないことを祈っている。
ではまた。

この世への未練

こんにちは。
最近は今日を乗り切ったら明日はどうなってもいいという心持ちで限界まで働いている私だが、どうにも人間は追い込まれると本能なのか脳がフル回転して一気に視界が開けるようになると最近は思う。おかげで書きたいことがたくさん出てくるし、感受性も豊かになる。

しかし答えが希薄でまとまらない問いに対しては、日によって答えがずれる時がある。
寝て起きて今日を迎えた自分と昨日を生きていた自分は同一人物と言えるだろうか。それはNoでしかない。
それならばメモを残しておいた昨日の自分と脳内会議をすることでセルフ哲学対話が完成する。
というわけで今回の記事は、数日に分けて書くという初めての試みをしてみた。
今回の記事は共感を求めるものではなく、ただ一個人としてもがいた履歴を残してみようという意図で書いているので、理解出来なくても見えているセカイが異なるのだと感じてもらえれば十分である。

この世を生きることの意義

私がこの世で生きる上で疑問に思う点がいくつもある。とりあえず思いついた順に書いていく。

  • 人間はなんのために生きているだろうか。
  • 動物の生きている意義と何が違うだろうか。
  • なぜ進化を強いられるような現象の中に居るのか。

動物が生きる理由とは、すなわち種の存続であると私は思う。種の存続のためには長いスパンをかけた進化が必要である。だからこそ生き物には死ぬということが必然であるのだと私は考える。

今日における人間が生きる理由がここに尽きるとは私は思わない。終わりがあるならば、「終わりよければすべてよし」の理屈で生きようとするからである(幸福になるために生きている)。

では幸福とはなんだろうか。

幸福とは

前にも紹介したが、現代で言う合理的幸福論とは

金融資本、人的資本、社会資本

の3拍子がどれだけ揃っているかであるそうだ。

私の中で砕くとそれぞれ

となる。

お金と人間関係は今日では種(個)の存続の部分に当たると私は考える。
自己実現は一旦幸福という部分において、生物学的理由があまり関与してこないように感じる。

しかし結局のところ自己実現も自分の身をどの共同体のどのポジションに収めるかでしかない(人間関係に帰着する)。お金も最低限を除けば基本的に自己実現や人間関係に置かれることから、基盤はどうやら人間関係であるらしいということになる。

合理的幸福論においては幸福が人間関係に帰着する。

人間関係について掘り下げてみよう。

人間関係について

人間関係とは、とある共同体における自分と他者の繋がりであると私は思う。
これに関して異論がある者は見たことがないのでとりあえずこれを定義付けということにする。

  • 人間関係の充実とはなにか。

個人にあった共同体で、個人にあったポジションにつければ充実であろう。
これに関して答えは一通りでは無いし、時を経て変化する。
ただし、自分のやりたいことをやれる共同体の元、ある程度挑戦が出来る環境が終わりよければすべてよし理論の現時点でのベストであると思われる。
この挑戦ができる環境という部分が人間関係と大きく結びつく。
それは

  • 自己肯定感が高く保てる。
  • 挑戦できる安定した土台
  • 同志の存在

この辺りである。詳しくは長くなるので述べないが想像するのは難しくないはずだ。

幸福という観点から見るとここまで掘り下げられる。

コンフリクト

共同体を正しく選択出来ればその時点である程度の幸福は担保される。
しかし、恵まれない環境の人間もいる。やりたいことがあってそれが出来ない共同体しか視界にない人間が多くいる。
そういう人こそ冒険して共同体選択に尽力すべきだが、ここで問題が起きる。
そう。お金と人間関係の問題だ。
お金が足りないと居心地のいい共同体へはなかなか行けない。
最初から人間関係は選択できない。例えば親は選択できない。付随して幼少期から青年期あたりまでの人間関係は選択の余地があまりない。

この世は幸福に生きようとすると種(個)の存続に反するという現象が起きるのだ。

よって幸福に生きることを諦めた人間が出てくる。または種(個)の存続を諦めた人間が出てくる。

前者の人間は生きているので見たことがある人は多いと思う。後者は最悪の結末である。

この世への未練

私は半ば幸福になることを諦めかけている。ついでに死ぬ選択を取らない理由がどこかにあるのだろう。友人Rには話したことがあるが、私は親が死ぬ前に死ぬということをしないというストッパーによって後者の選択をしないとしている。
しかし理由が希薄すぎると私は思う。なにか未練がこの世にあるのではないかと思っている。
例えばパートナーの存在もそうであろう。
本能的選択と理性的選択では選択の重みが1段階違うというのも大きいかもしれない。

締めとして

私は今の仕事に挫折しかけているし、精神的に疲弊している。明らかに共同体の選択を間違えている。
しかしいまさらである。今から共同体を大きく転換させるのはリスクが大きい。

  • 大きいリスクを取るか、死ぬか、共同体選択をミスしたことに気付いたまま壊れるか。

この選択を迫られた時にどうすればいいのか全く分からない。私的には「壊れるということに気付かない周りの人々の期待である3番目の選択を取っている」という形になる。きっと世の中の多くの人はそうしているし、その程度では壊れないのだそうだ。

書けば整理されて結論が出ると考えていたが、全くそんなことは無かった。何日考えても分からないから延々と選択を伸ばしているとも。

こういう形式は日記としては上々だ。ではまた。

私とは何か。

こんにちは。
普段はテレワークで出社必須では無いのだが、私は2週間に1度くらい出社している。片道1時間30分を。しかも満員電車は辛い。
それでもたまに出社するのも悪くなくて、家に居る時よりも緊張感が増して仕事が捗る。
仕事が捗って何が嬉しいのかという問いがあるのだが、仕事が捗る時は大体やりたいことも捗ってくるのが嬉しいというのが答えだろう。
古くからの友人が、「仕事を辞めたら創作意欲も無くなるだろう」なんて言っていたがその通りである。

さて、私は満員電車は嫌いだが本を読むのが好きだ。今日も電車に乗っている時間はずっとライトノベルを読んでいた。
ライトノベルは小説ではない。出直せ」という過激派を見かける。

「私とは何か」

自分が読んできたライトノベルはかなり偏りがあるが、日常系ライトノベルはどんな本よりもこの問いに答えようとしていると個人的には思う(理由は後述する)。
そして自分もその世界に憧れて筆を取ろうというわけだから何らか書けなければなと思うわけである。

青春を謳歌せし「私」

個人的に日常系ライトノベルが「私とは何か」に答えようとしてくれていると思っている理由だが、それは

多くがここに集約される。

前者はいいだろう。後者について説明する。
後者はエリクソンの8つの発達段階のうちの青年期にあたる部分を指す。
簡単に言えば

  • 他者と比較し、「私」とは何者かを考える時期

となる。
これは多くの日常系ライトノベルのキャラクターの年齢層と合致する。この年頃のキャラクターの苦難を見ると彼らなりに答えを探してもがいている姿を見ることが出来る。
これが理由の一因だ。
でも思うだろう。
「書いているのは大の大人じゃないか」
そう。ポイントはそこにある。

大人と子供の違い

突然だが作家のアイデンティティはどこにあるだろうか。

  • 何かを書くのが得意
  • 何か伝えたいことがある

他にも色々出てくるかもしれない。
その中から注目してみたいのが、

  • 何か伝えたいことがある

という部分だ。

大の大人が世の中の皆に向けて伝えたいこととはなんだろうか。正直に言うが私はそれが理解出来ているわけではない。

しかしそれは本の中のキャラクターに載せて書かれる。

ということは言えそうだと思う。

では少し縮めて、日常系ライトノベル作家が伝えたいことはなんだろうか。
これには私なりに答えがある。

それは''未練''だと私は思っている。

子供の時に経験してる最中にはきっと分からないものだ。大人になってから分かる

  • あの時こうすればよかった
  • あの時はこう考えていたのだろう
  • 今ならこういう結論が出せる

というものが込められている。

最初の方で恋愛という要素も挙げていたが、恋愛という面は大きい。好きな人のために連日連夜悩み続けた人は多いだろう。

ともかくアイデンティティの確立時期に思い悩んだことに対して後悔し、それを整理しきった大人は、アドバイス的に青春の物語を書くことが出来るのだ。

結局私とは何か

哲学的に色々な定義がなされている問いである。

我思う故に我あり

はよく聞くかもしれない。

ここではそんな難しいことは考えないことにして、直感的に考えてみよう。

  • 他者と違う
  • 優しいかも
  • 友達少ない

etc......

まぁ色々な要素が出てくるだろう。
ここから言えるのは全部他者との比較で成り立つ要素だ。
つまり

所属する共同体によってアイデンティティは異なる。

だからその要素で考える「私」は究極的には存在しないとまで言えそうだ。

ではあえてここで皆に問おう。

「私」とは何か。

締めとして

さてこんなこと書くと、哲学者である友人R君に色々ツッコミを入れられてしまうので「私」がしっかり存在すると言って締めよう。
本文では使い分けていないが、「私」とアイデンティティは違う。
アイデンティティは他者無くして成り立たないが、「私」の定義には他者など出てこない。それこそデカルト

我思う故に我あり

である。

私が使った意味での

「私」とは何か

という問いに対して
今日読んでいたライトノベル

僕には何も無い、何も無いところから成長なんか出来ない。僕と彼女は根本から違う。

のようなことが書いてあったので、深く共感した上で、「私もそう答える」という文章を書いてみた。
いかがだっただろうか。
私は
「大人になっての自分探しも許していただきたい。私は自分が好きでしょうがないので、他者に気を配る脳の容量はないのだ」
と言いたい。大人だから我慢するけど。

では、また。

奇しくも1年越しに。

こんにちは。
1年も更新していないというべきか
まだそこにいるのかというべきか
少々悩ましいところだが、また機会が生まれたようなので書いてみようと思う。
ちなみに今は心身ともにそれなりに元気である。

変化としては数学徒は卒業したので、ただのモラトリアム社会人になったというところだろうか。

モラトリアムという言葉は便利で割と色々な意味で多用されがちのようだが、ここでいうモラトリアム社会人とは
「精神的に大人になりきれない学生気分の社会人」
を指すことにする。

やりたいことってなんだろうね。そういうの見つかる人羨ましいよ。
と毎日愚痴を吐いて生活している燐でした。

やりたいこととお金になること

自分もよく言うが

「やりたいことがありません」

とは周りでもよく聞くことだ。
実際自分の周りでも、やりたいことは特にないと言う人は多く、就活でも苦労してそうだし仕事に対する意欲という面でも少し苦労してそうだ。
しかし、本当にやりたいことがない人は居ないのでは無いだろうか。

私の憶測では、やりたいことがお金にならない
という際に「やりたいことが特にない」という状態につながるのでは無いかと思う。

例えばこの世にはゲームをする人間がごまん
といる。それは恐らくやりたいことだ。
しかしそれがお金になるためにはプロゲーマーか何かを目指す他ないだろう。

ゲーム以外にも多くの場合、やりたいことは基本的にお金にならない。

誰かが言ってた気がするので一応引用ということにして紹介しよう(多分私の解釈が交じっている)。

「働くとは他の誰かがやりたくないことをやるからお金が貰えるんだ。誰かがやりたいならお金にならなくてもそいつがやる」

全面的に肯定できる意見では無い。ただやりたいことだけしてお金が貰える仕事はないのも事実だと思う。

お金になることは、やりたいことどころかやりたくないことをやることが多いのだ。
(もちろんそうでない時もあるということは往々にして有り得るという断りは入れるべきではあるだろうが)

よって大抵の人はやりたくないことをやってお金を得ている。

やりたいことの起源

やりたいことをやりたいという気持ちに意識的理由はないだろう。

「やりたいからやりたい」

おそらくそうとしか説明がつかない。

では無意識的な部分を見つめるとどうだろう。
ここからは私の考察なので、駄文程度に見てみよう。

人の動機はいつも単純で、全て人間関係に帰着するはずだ。
人に褒めて貰えた経験、人に認めて貰えた経験。
このような経験は人の動機の要になると私は思う。
自分のしていることを人と共有してその人に認められると、それは好きなことになりやりたいことになるのではないか、と私は考えている。

勉強の達成感を考えて欲しい。自分は頑張って分かるようになった。一見ここに他人の介在余地はない。
しかしなぜ自分は勉強を頑張るのか、と視点を変えてみると結局いい大学に行きたいなどの答えに行き着くのではないか。そして突き詰めると他人の期待というものが現れてきたりしそうだ。
(大体勉強を1人でする人も少ないとは思うので、出来るところは認められ、出来ないところは教えられ、コミュニケーションが生まれることが楽しい部分とも言えるかもしれない)

駄文なので長くなってしまったが、
つまりお金とは一切関係がない部分で基本的にやりたいことは形成されると私は思う。

締めとして

お金とやりたいこと、人間関係とやりたいことについて話してきた。
今回幸福度の話をしていなかったが、お金も人間関係もやりたいことも全て幸福に繋がる大事な要素だ。
そしてそれらは大体の場合、分けて考えられるはずだ。
人の言葉を借りれば

「金融資本」、「人的資本」、「社会資本」

である(『シンプルで合理的な人生設計』の帯の部分より)。
詳しくは上にあげたビジネス書や自己啓発本を読んで欲しい(ちなみに私は読んだことはほぼ無い)。

人はお金と人間関係とやりたいことの達成を天秤にかけて幸福になろうとしている。

私はやりたいことの達成と人間関係が基本的に幸福に繋がるタイプなのだと書きながら自覚した。

久々の文章なので少し下手だが、許容して欲しい。これから慣れるといいなと思う。
更新頻度は不明だが、これからまたこのブログを日記代わりに使おうと思う。それでは。

お薬は万能じゃない……はず

こんにちは。
レポート2本に追われていてブログどころではないのだが、そういう時に限って書きたいことがつらつら出てくるのはあるあるなのだろうか。

さて今回は少し特殊な状況での話をしようと思う。
例えば私は薬がないと動けないが、薬を飲めば動ける人間であるとしよう。
つまり人々が見る私は一般人と何ら変わりない健常な人間である。
この状況を踏まえて少し考えた空想を書いてみようと思う。

穴を埋める

私は誰かにこのような事を聞いた。

「施しとは、誰かに見返りを求めるものではない」

当然であろう、といつかの私なら思ったものである。それは、ある共同体に対して貢献したいという意欲によってのみ行われる行動であり、思いやりからくる行動であると考えた。そこに見返りを求める事はもはや施しではない上に、既に下心満載の思いやりとはかけ離れた行動であると考えたのだ。

しかし、人は完璧ではない。共同体意識というものは互いに施しあって成立するものだと今の私は思う。
簡単に言えば、私もその他の人も互いが互いに親友だと思っていればそこには本当の友情の関係が生まれる。
しかし、片方だけが親友だと思っている場合、思いの丈に差が生じる。ある人が親友だと思って接しているが相手がその人を単なる友人程度にしか思っていない場合、つまり自分の施しを自分の丈に合ったように返してくれない場合、友情で出来た共同体というものは崩壊に近づくだろう。

ここからは本題だが、しかしその事に我慢すれば見かけ上共同体としての形を保てる場合がある。その場合、我慢している人間はフラストレーションが溜まることになる。
それで心に穴がぽっかり出来るような人間は現代では稀ではないだろう。

お薬はその穴を埋めてくれる。

虚しさ

しかし、ある日気づくのだ、我慢せずに発狂してやりたい、その心に空いた穴から無限の闇を発射してやりたい、そう思ってもその穴をお薬が埋めてくれてしまった事に。そう。その人の、人としての対応の間違いを薬は埋めてしまった。その人は我慢せずにその人らしく振る舞うべきであったという事を、次の共同体にまた次の共同体に移れば良いという事に気付けない。いや気付いても恐ろしくて出来ない。

……これが優しいお薬の虚しさか、と。

締めとして

この話は欠陥品であるし、本当にただの空想である。実際、お薬には穴を埋める力はない。何故ならば基本的にお薬は症状を抑えるだけであって感情には作用しないからだ。だから穴が空いている事に気づくし、環境の改善をする事が治療として確立されている。
しかし穴が空いていても暴れ回る気力というものは確かに削がれていて、この噛み合わなさに対してなにか感じる所がある人はもしかしたらいるのではないか。

……さて、レポートやって論文読まないとね。
では、また。

コンテクスト

こんにちは。
私は忙しくて基本的に暇があまりないのだが、朝は頭が働いていないから動けないという言い訳をして朝食を取るまでは何をしてもいいというルールを設けている。
今朝は暇な時にぼんやり友人のブログを読み漁っていた。その時に気付いた事について少し書いてみようと思う。

コンテクスト

友人のブログは何も今日じゃなくても、今までにも読んだ事があった。なんなら今日は1年くらい前に読んだ記事を読み返していた。そこで気付いたことがある。

……なんだか少し分かるようになってきている……?

この感覚である。
昔から私の友人は私にとって何を言ってるか半分くらいしか分からない人間であったが、それでいてもう5~6年の付き合いになる。
そう、その読み返していた記事、彼の哲学的な態度について書かれていたもの、は過去読んだ時には半分くらいしか分からないと感じていた記憶がある。しかし今日読むと9割くらい分かるのだ。
こういう時、どう感じるのだろうか。

  • 私が見識を深めた故に理解出来るようになった。

しかし私の直感ではこれは一概にそうとは言えないのである。というのが今回のお話だ。

まず、私と友人について過去、高校生時代ではお互いの思想をぶつけ合う、いわば討論仲間であった。大学生に入ってからは私は自身の思想について研鑽をやめた。そして彼はより一層の研鑽を積むようになったと感じる(単純に自分がやめたからそう感じたという可能性もある)。
しかし時々会っては回想し、近況報告などをするくらいの仲ではあった。そうして今までそのように関係を続けてきた訳だが、さて、私は本当に見識を深めたのだろうか。

記事が理解出来るようになってきたのは、私が見識を深めたのでは無く、恐らく彼と話していく内に共通言語のようなものが増えたからであると私は考える。
仲の良い人間を想像して欲しい。恐らくこの身内でなければこの言葉遣いはしないというものはないだろうか。それがあなたとその人の共通言語である。これは一朝一夕で生まれるものではない。長く話してきたからこそのものである。
つまり人は長く話していく内に分からないもののニュアンスがだんだん掴めていくという事である。

ソシュールの考え方を引用してみたいと思う。

ソシュールとは、19世紀後半~20世紀前半のスイスの言語学者で、生前の著作はないが没後にジュネーブ大学での講義ノートをもとに編集された『一般言語学講義』が岩波書店から出版されており、彼の考え方は日本語で読む事が出来る(非常に難解ではあるようだが)。

彼は、文化や地域の差から生じる言語の指し示す意味範囲の違いに着目した。
彼が出した例にムートンとシープの話がある。
ムートンとはフランス語でシープは英語である。ムートンは生き物としての羊と食用肉になった羊の両方に用いるが、シープは生き物としての羊にしか使わず、食用肉になった羊はマトンという。

つまり同じ意味範囲でもフランス語では1語、英語では2語で分節されている。
何が言いたいのか。この場合において英語ではフランス語より細かく物事が捉えられているのだ。

これは例に限ったことでは無いし、恐らく同じ日本語の中でも生じうる話であると私は考える。

植物図鑑を丸暗記しているようなAくんと、植物について詳しくない私では、見えている世界が違う。私には緑一色の景色にしか見えなくても、Aくんにはカラフルな景色が広がっているはずだ。

これを応用しよう。人は話していくうちに相手の使う言葉と自分の使う言葉の意味範囲の違いに気付く。相手と自分のこの違いに気付くには同じ話を何度もせねばならない。
そうしていくうちに相手の使う言葉に自分の使う言葉の意味範囲を合わせて会話することができるようになるのだと私は思うし、実際、私と友人も同じ事をしているのだと感じる(私の友人が合わせてくれている事が多いという事を自覚した気がする)。

使う言葉の意味範囲の違いを捉えていくことで、飛躍的に理解が広がる事もあるのではないだろうか。

締めとして

この考え方は仲の良い人をより良く理解する時に大切な考え方なのではないかと最近個人的には考えている。もちろんソシュールから分かる事としてこれよりももっと重要な事もたくさんあるが、論旨とズレるのでその事には触れなかった(今ならネットで検索しても出てくるであろう)。
私として、ひとまずコンテクスト(共通文脈)の重要性を少し理解してもらえれば幸いかと思う。

初めまして。

自己紹介

こんにちは。私は燐と名乗る男で、高校時代に読んだラノベのキャラクターから名前を取っていたりする。
私は実は記録をなにか残すという事が初めてだったりする。
ひとまず練習として自己紹介でもしようと思う。

大学4年生 数学科。部活なし。
実は中学高校も部活に入っていないので、先輩後輩という概念に馴染みがなかったりする。
最近は読書にハマっていて、伊藤計劃氏の長編2冊が最近読んだものではお気に入りである。
……くらいなのかな。……あまり慣れていないのでこの辺で勘弁して欲しい。

なにか日常生活でのたわいのない事柄、気づきについてこのブログに残しておこうかなと思い立った、午前1時だった。まあ日記くらいの感覚である。普通の日記との違いは他者に見られるという事。こんな得体の知れない人間の呟きはTwitterの方がいいのかもと多少感じつつ、140字じゃ少ないよと感じつつ。
……まあ今の時点でTwitterはやっていないんですけども。

今日について

せっかくなので1つくらい書いておこうと思う。
私は大学まで行くのに電車に乗るのだが、もちろん時間帯によっては人でごったがえしている。
今日の舞台は満員電車である。
満員電車とはなかなかに自分のスペースがないもので荷物なり身体なりがぎゅうぎゅう押されるのである。私はそれ自体にあまり苦痛を感じたりはしない質で、もちろん誰かに文句を言う訳でもないのだが、私の前にいた2人がお互いに聞こえるような声量で何やら文句を言っている姿を見かけた。3駅ほどおしくらまんじゅうをしながら文句を言い合っている様を見ると、当たり前だが人って多種多様だなと感じた。
さて、今日の授業で私は相対主義なるものを習った。簡単に言うと「人の価値観ってそれぞれだよね」である。黙って見ている私も、おしくらまんじゅうしながら文句を言い合っている2人も、それぞれ視点があって正しい事をしている、と言うことも出来るのではないか。常識的には傍から見ていると迷惑なのではないかって思うのだが。

授業で習う事って理解が浅いと社会と乖離していると感じる事が割とあるよなぁって思う日であった。

締めとして

話の構成が下手で、起きた出来事から言いたい事までがグダグダしているように思えた。書き慣れてないのはあるのだろうが、おそらく結局私にとっては結構どうでもよい出来事だったのである。そうすると日常に気づきを得るという事自体が意外と難しいというのが今日の気づきであろうか……。

また、なにか書きたくなったら書こうと思う。それではまた。