モラトリアム社会人

日常の拡大が非日常を生み出すのだろうか。

奇しくも1年越しに。

こんにちは。
1年も更新していないというべきか
まだそこにいるのかというべきか
少々悩ましいところだが、また機会が生まれたようなので書いてみようと思う。
ちなみに今は心身ともにそれなりに元気である。

変化としては数学徒は卒業したので、ただのモラトリアム社会人になったというところだろうか。

モラトリアムという言葉は便利で割と色々な意味で多用されがちのようだが、ここでいうモラトリアム社会人とは
「精神的に大人になりきれない学生気分の社会人」
を指すことにする。

やりたいことってなんだろうね。そういうの見つかる人羨ましいよ。
と毎日愚痴を吐いて生活している燐でした。

やりたいこととお金になること

自分もよく言うが

「やりたいことがありません」

とは周りでもよく聞くことだ。
実際自分の周りでも、やりたいことは特にないと言う人は多く、就活でも苦労してそうだし仕事に対する意欲という面でも少し苦労してそうだ。
しかし、本当にやりたいことがない人は居ないのでは無いだろうか。

私の憶測では、やりたいことがお金にならない
という際に「やりたいことが特にない」という状態につながるのでは無いかと思う。

例えばこの世にはゲームをする人間がごまん
といる。それは恐らくやりたいことだ。
しかしそれがお金になるためにはプロゲーマーか何かを目指す他ないだろう。

ゲーム以外にも多くの場合、やりたいことは基本的にお金にならない。

誰かが言ってた気がするので一応引用ということにして紹介しよう(多分私の解釈が交じっている)。

「働くとは他の誰かがやりたくないことをやるからお金が貰えるんだ。誰かがやりたいならお金にならなくてもそいつがやる」

全面的に肯定できる意見では無い。ただやりたいことだけしてお金が貰える仕事はないのも事実だと思う。

お金になることは、やりたいことどころかやりたくないことをやることが多いのだ。
(もちろんそうでない時もあるということは往々にして有り得るという断りは入れるべきではあるだろうが)

よって大抵の人はやりたくないことをやってお金を得ている。

やりたいことの起源

やりたいことをやりたいという気持ちに意識的理由はないだろう。

「やりたいからやりたい」

おそらくそうとしか説明がつかない。

では無意識的な部分を見つめるとどうだろう。
ここからは私の考察なので、駄文程度に見てみよう。

人の動機はいつも単純で、全て人間関係に帰着するはずだ。
人に褒めて貰えた経験、人に認めて貰えた経験。
このような経験は人の動機の要になると私は思う。
自分のしていることを人と共有してその人に認められると、それは好きなことになりやりたいことになるのではないか、と私は考えている。

勉強の達成感を考えて欲しい。自分は頑張って分かるようになった。一見ここに他人の介在余地はない。
しかしなぜ自分は勉強を頑張るのか、と視点を変えてみると結局いい大学に行きたいなどの答えに行き着くのではないか。そして突き詰めると他人の期待というものが現れてきたりしそうだ。
(大体勉強を1人でする人も少ないとは思うので、出来るところは認められ、出来ないところは教えられ、コミュニケーションが生まれることが楽しい部分とも言えるかもしれない)

駄文なので長くなってしまったが、
つまりお金とは一切関係がない部分で基本的にやりたいことは形成されると私は思う。

締めとして

お金とやりたいこと、人間関係とやりたいことについて話してきた。
今回幸福度の話をしていなかったが、お金も人間関係もやりたいことも全て幸福に繋がる大事な要素だ。
そしてそれらは大体の場合、分けて考えられるはずだ。
人の言葉を借りれば

「金融資本」、「人的資本」、「社会資本」

である(『シンプルで合理的な人生設計』の帯の部分より)。
詳しくは上にあげたビジネス書や自己啓発本を読んで欲しい(ちなみに私は読んだことはほぼ無い)。

人はお金と人間関係とやりたいことの達成を天秤にかけて幸福になろうとしている。

私はやりたいことの達成と人間関係が基本的に幸福に繋がるタイプなのだと書きながら自覚した。

久々の文章なので少し下手だが、許容して欲しい。これから慣れるといいなと思う。
更新頻度は不明だが、これからまたこのブログを日記代わりに使おうと思う。それでは。