モラトリアム社会人

日常の拡大が非日常を生み出すのだろうか。

お薬は万能じゃない……はず

こんにちは。
レポート2本に追われていてブログどころではないのだが、そういう時に限って書きたいことがつらつら出てくるのはあるあるなのだろうか。

さて今回は少し特殊な状況での話をしようと思う。
例えば私は薬がないと動けないが、薬を飲めば動ける人間であるとしよう。
つまり人々が見る私は一般人と何ら変わりない健常な人間である。
この状況を踏まえて少し考えた空想を書いてみようと思う。

穴を埋める

私は誰かにこのような事を聞いた。

「施しとは、誰かに見返りを求めるものではない」

当然であろう、といつかの私なら思ったものである。それは、ある共同体に対して貢献したいという意欲によってのみ行われる行動であり、思いやりからくる行動であると考えた。そこに見返りを求める事はもはや施しではない上に、既に下心満載の思いやりとはかけ離れた行動であると考えたのだ。

しかし、人は完璧ではない。共同体意識というものは互いに施しあって成立するものだと今の私は思う。
簡単に言えば、私もその他の人も互いが互いに親友だと思っていればそこには本当の友情の関係が生まれる。
しかし、片方だけが親友だと思っている場合、思いの丈に差が生じる。ある人が親友だと思って接しているが相手がその人を単なる友人程度にしか思っていない場合、つまり自分の施しを自分の丈に合ったように返してくれない場合、友情で出来た共同体というものは崩壊に近づくだろう。

ここからは本題だが、しかしその事に我慢すれば見かけ上共同体としての形を保てる場合がある。その場合、我慢している人間はフラストレーションが溜まることになる。
それで心に穴がぽっかり出来るような人間は現代では稀ではないだろう。

お薬はその穴を埋めてくれる。

虚しさ

しかし、ある日気づくのだ、我慢せずに発狂してやりたい、その心に空いた穴から無限の闇を発射してやりたい、そう思ってもその穴をお薬が埋めてくれてしまった事に。そう。その人の、人としての対応の間違いを薬は埋めてしまった。その人は我慢せずにその人らしく振る舞うべきであったという事を、次の共同体にまた次の共同体に移れば良いという事に気付けない。いや気付いても恐ろしくて出来ない。

……これが優しいお薬の虚しさか、と。

締めとして

この話は欠陥品であるし、本当にただの空想である。実際、お薬には穴を埋める力はない。何故ならば基本的にお薬は症状を抑えるだけであって感情には作用しないからだ。だから穴が空いている事に気づくし、環境の改善をする事が治療として確立されている。
しかし穴が空いていても暴れ回る気力というものは確かに削がれていて、この噛み合わなさに対してなにか感じる所がある人はもしかしたらいるのではないか。

……さて、レポートやって論文読まないとね。
では、また。