モラトリアム社会人

日常の拡大が非日常を生み出すのだろうか。

この世への未練

こんにちは。
最近は今日を乗り切ったら明日はどうなってもいいという心持ちで限界まで働いている私だが、どうにも人間は追い込まれると本能なのか脳がフル回転して一気に視界が開けるようになると最近は思う。おかげで書きたいことがたくさん出てくるし、感受性も豊かになる。

しかし答えが希薄でまとまらない問いに対しては、日によって答えがずれる時がある。
寝て起きて今日を迎えた自分と昨日を生きていた自分は同一人物と言えるだろうか。それはNoでしかない。
それならばメモを残しておいた昨日の自分と脳内会議をすることでセルフ哲学対話が完成する。
というわけで今回の記事は、数日に分けて書くという初めての試みをしてみた。
今回の記事は共感を求めるものではなく、ただ一個人としてもがいた履歴を残してみようという意図で書いているので、理解出来なくても見えているセカイが異なるのだと感じてもらえれば十分である。

この世を生きることの意義

私がこの世で生きる上で疑問に思う点がいくつもある。とりあえず思いついた順に書いていく。

  • 人間はなんのために生きているだろうか。
  • 動物の生きている意義と何が違うだろうか。
  • なぜ進化を強いられるような現象の中に居るのか。

動物が生きる理由とは、すなわち種の存続であると私は思う。種の存続のためには長いスパンをかけた進化が必要である。だからこそ生き物には死ぬということが必然であるのだと私は考える。

今日における人間が生きる理由がここに尽きるとは私は思わない。終わりがあるならば、「終わりよければすべてよし」の理屈で生きようとするからである(幸福になるために生きている)。

では幸福とはなんだろうか。

幸福とは

前にも紹介したが、現代で言う合理的幸福論とは

金融資本、人的資本、社会資本

の3拍子がどれだけ揃っているかであるそうだ。

私の中で砕くとそれぞれ

となる。

お金と人間関係は今日では種(個)の存続の部分に当たると私は考える。
自己実現は一旦幸福という部分において、生物学的理由があまり関与してこないように感じる。

しかし結局のところ自己実現も自分の身をどの共同体のどのポジションに収めるかでしかない(人間関係に帰着する)。お金も最低限を除けば基本的に自己実現や人間関係に置かれることから、基盤はどうやら人間関係であるらしいということになる。

合理的幸福論においては幸福が人間関係に帰着する。

人間関係について掘り下げてみよう。

人間関係について

人間関係とは、とある共同体における自分と他者の繋がりであると私は思う。
これに関して異論がある者は見たことがないのでとりあえずこれを定義付けということにする。

  • 人間関係の充実とはなにか。

個人にあった共同体で、個人にあったポジションにつければ充実であろう。
これに関して答えは一通りでは無いし、時を経て変化する。
ただし、自分のやりたいことをやれる共同体の元、ある程度挑戦が出来る環境が終わりよければすべてよし理論の現時点でのベストであると思われる。
この挑戦ができる環境という部分が人間関係と大きく結びつく。
それは

  • 自己肯定感が高く保てる。
  • 挑戦できる安定した土台
  • 同志の存在

この辺りである。詳しくは長くなるので述べないが想像するのは難しくないはずだ。

幸福という観点から見るとここまで掘り下げられる。

コンフリクト

共同体を正しく選択出来ればその時点である程度の幸福は担保される。
しかし、恵まれない環境の人間もいる。やりたいことがあってそれが出来ない共同体しか視界にない人間が多くいる。
そういう人こそ冒険して共同体選択に尽力すべきだが、ここで問題が起きる。
そう。お金と人間関係の問題だ。
お金が足りないと居心地のいい共同体へはなかなか行けない。
最初から人間関係は選択できない。例えば親は選択できない。付随して幼少期から青年期あたりまでの人間関係は選択の余地があまりない。

この世は幸福に生きようとすると種(個)の存続に反するという現象が起きるのだ。

よって幸福に生きることを諦めた人間が出てくる。または種(個)の存続を諦めた人間が出てくる。

前者の人間は生きているので見たことがある人は多いと思う。後者は最悪の結末である。

この世への未練

私は半ば幸福になることを諦めかけている。ついでに死ぬ選択を取らない理由がどこかにあるのだろう。友人Rには話したことがあるが、私は親が死ぬ前に死ぬということをしないというストッパーによって後者の選択をしないとしている。
しかし理由が希薄すぎると私は思う。なにか未練がこの世にあるのではないかと思っている。
例えばパートナーの存在もそうであろう。
本能的選択と理性的選択では選択の重みが1段階違うというのも大きいかもしれない。

締めとして

私は今の仕事に挫折しかけているし、精神的に疲弊している。明らかに共同体の選択を間違えている。
しかしいまさらである。今から共同体を大きく転換させるのはリスクが大きい。

  • 大きいリスクを取るか、死ぬか、共同体選択をミスしたことに気付いたまま壊れるか。

この選択を迫られた時にどうすればいいのか全く分からない。私的には「壊れるということに気付かない周りの人々の期待である3番目の選択を取っている」という形になる。きっと世の中の多くの人はそうしているし、その程度では壊れないのだそうだ。

書けば整理されて結論が出ると考えていたが、全くそんなことは無かった。何日考えても分からないから延々と選択を伸ばしているとも。

こういう形式は日記としては上々だ。ではまた。