私とは何か。
こんにちは。
普段はテレワークで出社必須では無いのだが、私は2週間に1度くらい出社している。片道1時間30分を。しかも満員電車は辛い。
それでもたまに出社するのも悪くなくて、家に居る時よりも緊張感が増して仕事が捗る。
仕事が捗って何が嬉しいのかという問いがあるのだが、仕事が捗る時は大体やりたいことも捗ってくるのが嬉しいというのが答えだろう。
古くからの友人が、「仕事を辞めたら創作意欲も無くなるだろう」なんて言っていたがその通りである。
さて、私は満員電車は嫌いだが本を読むのが好きだ。今日も電車に乗っている時間はずっとライトノベルを読んでいた。
「ライトノベルは小説ではない。出直せ」という過激派を見かける。
「私とは何か」
自分が読んできたライトノベルはかなり偏りがあるが、日常系ライトノベルはどんな本よりもこの問いに答えようとしていると個人的には思う(理由は後述する)。
そして自分もその世界に憧れて筆を取ろうというわけだから何らか書けなければなと思うわけである。
青春を謳歌せし「私」
個人的に日常系ライトノベルが「私とは何か」に答えようとしてくれていると思っている理由だが、それは
- 高校生程度の恋愛を扱うこと
- アイデンティティの確立が青年期(12歳〜20歳)であること
多くがここに集約される。
前者はいいだろう。後者について説明する。
後者はエリクソンの8つの発達段階のうちの青年期にあたる部分を指す。
簡単に言えば
- 他者と比較し、「私」とは何者かを考える時期
となる。
これは多くの日常系ライトノベルのキャラクターの年齢層と合致する。この年頃のキャラクターの苦難を見ると彼らなりに答えを探してもがいている姿を見ることが出来る。
これが理由の一因だ。
でも思うだろう。
「書いているのは大の大人じゃないか」
そう。ポイントはそこにある。
大人と子供の違い
突然だが作家のアイデンティティはどこにあるだろうか。
- 何かを書くのが得意
- 何か伝えたいことがある
他にも色々出てくるかもしれない。
その中から注目してみたいのが、
- 何か伝えたいことがある
という部分だ。
大の大人が世の中の皆に向けて伝えたいこととはなんだろうか。正直に言うが私はそれが理解出来ているわけではない。
しかしそれは本の中のキャラクターに載せて書かれる。
ということは言えそうだと思う。
では少し縮めて、日常系ライトノベル作家が伝えたいことはなんだろうか。
これには私なりに答えがある。
それは''未練''だと私は思っている。
子供の時に経験してる最中にはきっと分からないものだ。大人になってから分かる
- あの時こうすればよかった
- あの時はこう考えていたのだろう
- 今ならこういう結論が出せる
というものが込められている。
最初の方で恋愛という要素も挙げていたが、恋愛という面は大きい。好きな人のために連日連夜悩み続けた人は多いだろう。
ともかくアイデンティティの確立時期に思い悩んだことに対して後悔し、それを整理しきった大人は、アドバイス的に青春の物語を書くことが出来るのだ。
結局私とは何か
哲学的に色々な定義がなされている問いである。
我思う故に我あり
はよく聞くかもしれない。
ここではそんな難しいことは考えないことにして、直感的に考えてみよう。
- 他者と違う
- 優しいかも
- 友達少ない
etc......
まぁ色々な要素が出てくるだろう。
ここから言えるのは全部他者との比較で成り立つ要素だ。
つまり
所属する共同体によってアイデンティティは異なる。
だからその要素で考える「私」は究極的には存在しないとまで言えそうだ。
ではあえてここで皆に問おう。
「私」とは何か。
締めとして
さてこんなこと書くと、哲学者である友人R君に色々ツッコミを入れられてしまうので「私」がしっかり存在すると言って締めよう。
本文では使い分けていないが、「私」とアイデンティティは違う。
アイデンティティは他者無くして成り立たないが、「私」の定義には他者など出てこない。それこそデカルトの
我思う故に我あり
である。
私が使った意味での
「私」とは何か
という問いに対して
今日読んでいたライトノベルに
僕には何も無い、何も無いところから成長なんか出来ない。僕と彼女は根本から違う。
のようなことが書いてあったので、深く共感した上で、「私もそう答える」という文章を書いてみた。
いかがだっただろうか。
私は
「大人になっての自分探しも許していただきたい。私は自分が好きでしょうがないので、他者に気を配る脳の容量はないのだ」
と言いたい。大人だから我慢するけど。
では、また。